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★ 曲作り初心者が、自分なりの感想を、ちょっとエラそうに述べております。 温かい目でご清覧ください。

 

作詞するということ

■ 作詞するということ

 

 

某小説家が、作中人物の作家にこんな趣旨の台詞を語らせていた。

 

 

” 作品は私そのものだ ”

 

 

これは、(どのジャンルであれ)「作品」を作る人間にとっては多かれ少なかれ当て嵌まることである。

 

無論、(小説の場合)作中の人物が殺人を犯すからといって、作者に殺人願望があるとはいえないけれど、なんといっても作者の頭の中から生まれ出てきたものなのであるから、そうした人物の心情を想像できる人間だということは間違いない。

 

 

話は少々逸れるが、

私は「自分の思考の範囲内でしか他人の思考をトレースすることはできない」という説は正しいと思っている。

それは、自分が考えたこともないことを考えている人間の頭の中は想像できない、ということである。

 

俗っぽい例えをするなら、自分が浮気をしている人間は、相手も浮気をしているのではと疑いやすく、

浮気を全く考えたことのない人間なんている訳がないと思い込むようなことである。

 

個人差はあるが、想像力にはやはり限界があると思うのだ。

例えば、現代の私たちは知識として「宇宙空間」の存在やその特性(無重力だとか真空だとか)を知っているが、

過去の人々は、「世界の終わりは海が滝となって流れ落ちている。大地は象や亀が支えている。(←コレいつもどうしてそう思ったのか不思議)」というように、自分の知識の範囲内でしか想像できなかった。

 

自動車王フォード氏の言葉にこんなのがあるそうだ。

「もし私が人々に今何が欲しいか尋ねたら、” もっと早い馬が欲しい ” と答えただろう。」

つまり、大抵の人はもっと早く移動する為にどうしたらいいのかと考えた時、

自分が今知っている移動手段 ” 馬 ” が速く走るしかない、と思う。

燃料で動力を生み出す機械を作ればよい、なんて考えつかないのだ。という話。

 

ものすごく端的に言ってしまえば、「自分が知らないことは想像できない(≒創造できない)」ということだろう。

(これを逆手にとれば、知識と経験を増やすほど想像力の範囲は広がるということになる。)

 

 

話がだいぶ逸れた。

要するに私が言いたいのは、作品というのは多かれ少なかれ作者の内面を必ず反映してしまうということだ。

当たり前といえばそうだが、文章などを紡ぐ場合、それがフィクションだとしても作者の人柄の一部は類推されてしまう、と思う。

 

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で、あるが故に、私は ” 作詞 ” などというものに、一種の恐れを抱いていた。

 

 

小説ならまだいい。

登場人物という隠れ蓑があるから、自分の本当に主張したい事も、疑問を呈したい事も、

表面上は他人が述べている風を装わせることができる。

 

しかし、作詞というのは、「作品の主張」=「作者の主張」であることがより強く感じられる。

短い文の中にテーマが詰められているので、小説よりも作者の意向がはっきりするのである。

勿論、多くの作品はフィクションだろうけれど、それにしても、自分が想像できないことは書けない筈だ。

 

 

というわけで、作詞をするということは、「私はこんなこと考えてますよ」と曝け出すことであり、私はそれが怖かったのである。

 

 

小説を書くのなら、先程も述べたようにいくらでも表現の仕方があるし、好きなだけ説明を書き並べることができるので平気だ。

むしろ、そうした形で自分の考えを公表するのは好きである。

また、小説でなくても、好きなだけ言葉を並べられる(言い訳ができる)のであれば、自分の主張を述べることも吝かでない。

(このHPをご覧になればわかるように。)

けれども作詞は、限られた文字数でしか表現ができないので、時に言葉が足りなくなることもある。

同じ一文でも、人によって受け取り方が異なることもある。(それはそれでよいこともあるけれど。)

 

例えば、

『転石苔生さず』が、イギリスでは「行動を軽々しく変えると何事も身に付かない」、アメリカでは「活発に活動し続ければ時代に取り残されない」ととられたり。

『時は金なり』が、日本では「時間は(お金と同じ位)大切なものだ」、欧米では「時間は(使い方によって)利益を生む」という感覚だったり。

エジソンの名言『天才は1%の閃きと99%の汗』は、「1%の閃きが無ければ99%の努力は無駄である」との解釈もあり、

水木しげる御大の名言『怠け者になりなさい』は、「将来怠けられるように、働けるうちは一生懸命働きなさい」という意味である(わからん!)。

 

 

というわけで、普段からあまり人に自分の考えを述べることをしない私は、” 作詞 ” に心理的抵抗があったらしい。

 

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そんな私が作詞をすることになったのは、歌唱の先生に勧められたからだが、

これが一度やってしまうと、慣れとは恐いもので、平気になってしまうのである。

 

とはいえ、まだ少し躊躇いはあるのだが、いい歌詞を書けと言われれば全力で当たるしかないので、恥ずかしいなどと言っていられないのである。

 

誰にそんなことを言われるのかといえば、スクールの先生及び外部から生徒にアドバイスをしに来てくださる音楽プロデューサーの方である。

 

ありがたいことに「いつも歌詞が面白い」と評価いただいている。

しかしそれ故、新曲を作る度に「これじゃ、ありきたりかな…」と悩んだりするのだが、今の所 ”野本ワールド” は維持できているらしい。

(自分ではありきたりだと思うのだが、そうでもないようだ。

ということは、やはり世間の感覚とズレが生じているということだな(苦笑))

 

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というわけで、私の思考をそのまま出しているわけでは勿論ありませんが、

日常生活やメディアからインプットされた情報が、私の中で選別・加工されてアウトプットされたものであることは間違いないですね…って、当たり前か。

でも、いろいろ誇張・創作してますよ。そりゃあ。テーマをハッキリさせないといけないから。

(こんなことわざわざ書くなんて、よっぽど何か引け目を感じてるのか…。小心にも程がある、と自分で情けない。)

 

まあ、とにかく私が詞を書くコンセプトは、

普段なんとなく感じていることを具体的な言葉にしてみて、「そうそう、そうなんだよね!」という共感を得たかったり、

「こんな考え方をしている人も世の中にはいるのかあ」と思ってもらいたかったり。

そんな感じです。

 

要は、私の歌を聴いて、ストレスが発散されたり、今まで気付かなかった思考に触れてみたり。

そんなことが起こればいいなあと思う次第です。

 

 

 

■ 作曲するということ

 

 

作曲なんてできるわけがない。

 

と、ずっと思っていた。

 

作曲なんてする人の、頭の中は一体どうなっているんだろう?

本当に想像もできなかったのである。

 

私は、造形物なら制作できる人間である。

何もない所から、(材料さえあれば)頭の中にあるものをほぼ忠実に実体化することができる。

 

それは、できない人にとっては不思議であるらしい。

(このことだけでも、人間って、同じように見えても頭の中は全然違うものなんだなあと思わずにはいられないのであるが。)

 

確かに、歌が好きで音楽が好きで、何千曲も色んな曲を聴いて、何百曲も歌えるほど憶えているのに、自分では作れない…というのも変な気がするが、本当にできる気がしなかったのだからしょうがない。

 

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そんな私が、作曲に挑戦することになったのも、何かの縁である。

 

「自分には絶対できない」と思っていたことをやってみる。

そんなことは意外と人生で少ないと思う。

 

思わしい成果が残せなくても、それはそれでいい。

「やってみる」こと自体が価値のあることだ、と思う。

 

と、ほとんど捨て鉢にも似た気分で取り組んだ課題であったのだが、

結果として、とても満足している。

 

それは、「自分にも作曲ができる」という、一生得られそうもなかった感覚を得られたからであり、

それなりの作品を作り出すことができたという感動を味わえたからである。

 

ただ、これは私の独力では決してできなかったことであり、私に曲作りを勧めてくれ、熱心に指導をしてくださったボーカルスクールの先生のおかげである。

 

そして、スクールを通じて制作してくださるアレンジャーさんの、素晴らしい手腕のおかげである。

(未だ、編曲ができる人の頭の中は全く想像できない。どうしたらあんなことができるのか?)

 

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そうした周りの方々のおかげで、曲を作る楽しみを知ることができたことをとても感謝している。

まだ大して曲数も作っていないし、音楽理論なども全く理解できていないので、これから色々勉強していきたい。

 

そして、たくさんの人に愛してもらえるような曲を作りたいと思っています。

 

 

 

 

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■ 詞と曲について

 

 

私は曲重視派である。

 

というと、なんだか音楽に拘りのある人のように思われるかもしれないが、実は大したことはない。

「あ、この曲いいな」と思うかどうかの判断基準は第一に曲調である、というだけのことだ。

 

普通といえば普通かもしれない。

だが私は特に、「歌詞がイイからこの曲が好き」という意見にはあまり同調できないことが多いのである。

 

そもそも私が好きな曲というのは、歌いたいと思う曲である。

歌いたいかどうかに、私の場合、歌詞はあまり関係ない。

曲調やリズムが好きなら、歌詞は二の次なのだ。

 

もしかするとそれは、歌うことに対してあまり真摯な姿勢でないということなのかもしれない。

歌の価値は、やはり歌詞に多くあるとは思う。

歌詞が無いものは ” 歌 ” ではなく ” 音楽 ” であり、それはまた別の物差しが必要だ。

 

他に歌の良さを決めるものといえば、歌い手の技量である。

私はその技量の方により興味があり、歌詞にはあまり興味を持たなかったのだ。

 

要は私の場合、(自分がただ歌いたいという時は)歌詞に感情移入なんてできなくてもいいのである。

(人に聴いてもらう時は、勿論できる限り良いものを聴いてもらいたいので、必要なら感情移入もするけれど。)

 

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そもそも私は、歌というより、歌も含めた ” 音楽 ” が好きなのである。

(まあ、本当に熱を入れて音楽と向き合っている人とは比べるべくもないが…)

少なくともそうでなければ、小学生にして「古畑任三郎サウンドトラック」をレンタルショップで借りることはなかろうと思う。

 

改めて考えてみると、” 音楽が作りだす雰囲気 ” みたいなものが好きなのかもしれない。

結構サウンドトラックが好きなのである。

だから、和田薫とかKen Araiとか、川井憲次、佐橋俊彦、大島ミチルなど好きである。

久石譲もすぎやまこういちも細野晴臣も好きである。

 

TVを見ていたりして、「このBGM好きなタイプだな」と思うと、好きな作曲家が手掛けていたりする。

初めて聴く曲で「これ好きだな」と思ったら、私の好きなアーティストが作って提供した曲だったりすることもよくある。

ので、歌詞と違って、好きな曲調というのはだいぶハッキリしているようだ。

 

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とはいえ、歌詞にも多少の好みはある。

基本的には曲が好きなら歌詞がどんなものでも歌うが、より歌っていて楽しいというか面白いというか、気持ちいいというか、

そういうのは、ある。

好みの曲調との関係も無視できないが、大まかにいえば、男性目線の、若干ネガティブ傾向の歌詞が好きだ。

SURFACE、ポルノグラフィティ、T.M.Revolution、槇原敬之、桑田佳祐、シャ乱Q辺りの、

あまりポジティブやロマンチックでない、ひねくれたタイプの曲など。

 

だがしかし、ウルフルズも好きである。RIP SLYMEも好きである。米米CLUBも好きである。井上陽水も好きである。

松任谷由実も中島みゆきも電気グルーヴも平井堅もPerfumeも好きである。

小島麻由美、中村中、山本正之、SOUL'd OUT、たま、チューリップも好きである。

 

詳しくは知らないけど、割と好きな曲が多いなあ、というレベルであれば、小沢健二、福山雅治、斎藤和義、山下達郎、B'z、Mr.Children、BEGIN、EGO-WRAPPIN'、一青窈、嘉門達夫… って、やめよう。

 

そもそも、まず曲を聴いてそれが好きかどうか判断する人間なので、

単純に ” このアーティストが好き ” では括れない場合が多いのである。

実際、「このアーティストは、この1曲は好きだけど、他は知らない」というのが大半であるからして…。

 

それでも、そのアーティストの大まかな ” 路線 ” みたいなものはあるから、一つの括りと捉えられなくもないけれど。

しかし、そうなると、シンガーソングライターはいいが、そうでない(主に楽曲を提供してもらう)歌手も挙げ出したら収拾がつかなくなってくる。

例えば、TOKIO、SMAP、嵐、Kinki Kids、関ジャニ∞、ジェロ、研ナオコ、工藤静香、中森明菜、山口百恵、ピンクレディー、沢田研二、ザ・ドリフターズなんかも好きだ。60~80年代歌謡曲・ヒットソングも好きだし、80~90年代アニソンも好きだ。他にも色々好きだ。

そんなだから、歌手毎に羅列したら何十人にもなってしまう。

偏ってるクセに節操がないのである。

 

それに、好きだというなら、ほんの少しだが洋楽も聴くし、ミュージカルナンバーやJAZZも無視できない。

というわけで、この辺の話は、またいずれ。

(しかし、最近出てきたアーティストには疎いってことがよくわかるな、このラインナップ…。)

 

……歌詞の好みの話をしようと思ったのに、結局曲調の話になってしまった。

 

 

話を戻す。

多分、舞台で男役をずっとやっていたので、男っぽい歌詞の方が歌い易いというのはあると思う。

(感情移入できるというよりは表現の仕方がわかるという感じ。)

また、そういうのを歌った方が、カラオケなどで周りが喜んでくれることが多い。

 

でもまあ、私は自分が歌いたければ何でも歌うのだが。

鬼塚ちひろでも椎名林檎でもhitomiでも矢野顕子でも岩崎宏美でも太田裕美でも声優ソングでも何でも。

曲が好きならとりあえず歌ってみたいのである。

 

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しかし最近、歌詞の良さというか価値を、より理解できるようになってきたと思う。

昔は、あまり歌われないようなちょっと変わったテーマなどに面白味を感じていたのだが、

もっと普遍的な内容にも共感できるようになった気がする。…大人になったなぁ、俺。

 

これからも曲を作るなら、もっともっと色々なタイプの曲を聴いて勉強しなければいけないと思うので、

拘りが薄れて来たのは良いことだと思う。

 

 

時々、ハッとさせられるような歌詞に出逢うこともある。

自分もそういう歌詞が書ければいいなと思う、今日この頃です。

 

(アーティストの敬称は略させていただきました。)

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■ 自分で歌うということ

 

 

自分で作詞作曲をするようになって、それはもう様々なことに気付かされたのだが、

特に印象に残っている ” 気付き ” は、

 

「今まで誰も歌ったことのない歌を歌うのは難しい」

 

ということである。

 

私は今までの人生において、歌を覚える時は、必ず誰かが歌っているのを「聴いて」覚えていた。

補助として楽譜を参照することはあれど、基本的には誰かの歌声を頼りにしていたのだ。

 

まず「聴いて」、それから「一緒に歌って」、感覚を叩き込むのである。

もし私の記憶している音程やリズムがズレていたら、一緒に歌う時にわかるので、そこで修正する。

何度も一緒に歌って、ズレがなくなれば、「覚えた」ということである。

 

しかし、自作の曲はそうはいかない。

曲の ” 正しい音程・リズム ” というものは、私の頭の中にしか存在しないのである。

とりあえず譜面に書き出すことはするので、目で確認することはできる。

だが、私は絶対音感を持っていないし、譜読みもあまり得意な方ではないので、見た所で曖昧にしかわからないのである。

 

「自分の頭の中でいつでも再生できるのでは?」と思われるかもしれない。

確かにそうだ。

そうなのだが、事実として私は ” 手本としての音声 ” がないと、どうも上手く歌えないのである。

(上手く歌えないというのは、音程やリズムが曖昧だったり、曲調に合った歌い方ができないということ。)

 

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実は、初めはなかなかそのことに気付かなかった。

一応、詞と曲を作って譜面に書き出して、自分で歌ってみる。

そこまではいいのだが、なんとなく歌いこなせてないと思う。

それは、自分の力量では賄えない曲を書いてしまったということなのかもしれないが、とにかくどこかしっくりこない気がする。

 

そのうち、自分で歌ったものを録音して聴く機会がある。

やっぱり少し違う気がする。

それを聴いてどこがいけないのか考える。直す(歌い方を)。

また録音する。まだ直したい所がある。直す。

 

というのを繰り返しているうちに、少しずつはよくなる。

この過程を経験して初めて、

「ああ、歌を覚えるのに、” 手本の歌声を聴 く ” というのは、とてもやり易い方法だったのだな」と気付いた。

 

これは、曲作りをしなければ一生気付かなかったことだと思う。

(気付かなくたって別にいいようなことだが、どんなことでも知識・経験というのは人生において何かしらプラスになると思う。)

 

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そんなわけで、音程とリズムを自分の中で確定させるのも大変であり、

その上 ” 歌い方 ” も自分で考えなくてはいけない。これがまた難しい。

 

通常、アーティストが歌っているのをなんとなく真似すれば、その曲に合った感じにはなる。

そもそも私はその傾向が強く、むしろきちんと発声などを習っていなかった為、真似することしかできなかったとも言える。

そんなわけで、高校時代は「成田のつんく」として名を馳せたものである(一部誇張しております)。

 

で、自作の曲は誰も手本を歌ってくれないので、自分で歌い方を決めなくてはならない。

そしてその、 ” 自分で歌い方を決める ” というのが、私にとって大変難題であった。

 

 

私は何事も「人に合わせる」方が得意な人種である。…というと一部から反論があるかな。

確かに私は友人からよく変人扱いされる(イイ意味で)のであるが、しかし意外と他人の顔色を窺うタイプなのである。

(でも残念なことに鈍感なので、窺った所で読み解けてないことはよくある。)

 

 

そういうわけで、” 真似 ” とか ” 演技 ” はそこそこできても、” 自分を開放する ” のは苦手だ。

自分で歌い方を決めるというのは、なんだかそういう ” 自分を曝け出す ” 感覚に近いと思った。

 

作詞の話の時に、「小説なら登場人物に語らせれば自分を隠せるからマシだ」ということを述べたが、

歌い方に関しても、誰かの曲であれば「そのアーティストの雰囲気を真似しているのであって私自身の癖ではない」という顔ができる。

 

しかし、世界で私しか歌ってないとなれば、もう私自身の表現以外の何物でもないわけで。

それが私に躊躇いを齎すわけで。

 

とか何とかいっても、やはり作品としてきちんと成立させたいので、できる限り自分のイメージを表現する努力はする。

だが、自分では結構勢いづけて極端な歌い方をしたつもりでも、後で聴いてみるとそれほどでもなかったりする。

歌というのは、やはりただ音程・リズムが取れているだけでは面白味がない、と痛感。

 

 

それでもとにかくできる限りやってみた。

今の私の精一杯。ご清聴頂ければ幸いです。

これからも精進致しますので、どうぞよろしくお願いします。

 

 

 
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