「 わかりあえない 」 ということ
- nmtmah
- 2015年7月31日
- 読了時間: 10分
注:今回は軽いレポート形式でお届けします。
<恐怖とは何か?>
皆さんは、なぜ「お化けは怖い」のか、考えたことはあるだろうか?
私は考えた結果、一つの仮定に行き当たった。
その理由は、「意思の疎通ができない」から。
人間というのは、(意思を持っていると思われるのに)通じあえないもの、理解できないものに対して、恐怖や脅威、嫌悪を感じる、と思う。
お化けは、
「何を考えているのかわからない」
「こちらの呼びかけが通じない」
だから怖い。
一見、人の形をしていて大人しかったとしても、意思疎通ができないのであれば、不気味に感じる。
これは、例えば人々が、無差別殺人を犯した人間を厭う心にも似ている。
また、どんな美貌の持ち主でも、自分と全く気持ちが通じないのであれば、嫌悪感が生じることもあろう。
反対に、意思が通じるのであれば、見た目がどんなに奇異なものであっても、仲良くなることは可能だと思う。
我々人間が、『悪魔くん』の百目や『スターウォーズ』に出てくる異星人たちに親しみを感じられるように。
そもそも恐怖とは、文明を築く以前からある根源的な情動だという。
身の危険を感じることにより、自らの生命を維持する役割を担っているのだ。
そうしてみると、意思疎通ができない相手というのは、いつ自分に危害を加えるかわからない。
だから恐怖を感じるといえる。
また、たとえ攻撃をしてくるという積極的な脅威はなくとも、人間にとって重要な「集団行動」ができないという面でも好ましくない。
自分の要望を伝えた時、相手がそれに従ってくれる、またはそれに沿う努力をしてくれる。
沿えない場合も、その理由を説明してくれる。もし欺かれたとしてもその心情が理解できる。
そういう相手なら、人は受容できる。
そうでない相手は、受容できない。
「来ないで!」と叫んでも近づいてくるお化けは、怖い。
見た目が恐ろしくても、「来ないで!」と言ったらちゃんと止まってくれ、「あっち行って!」と言ったらすごすごと遠ざかっていくお化けはあまり怖くない。
むしろ、なぜ自分の前に出てきたのか、問いかけたい気持ちにすらなるだろう。
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また、少し違う種類の恐怖だが、「死体が怖い」という現象がある。
これは、「意思疎通ができそうでできない」という理由ではないだろう。
「もしこの死体が動いたら厭だな」といった、人間独特の “ 想像に基づいた恐怖 “ はあるかもしれないが、正常な人間なら、死んでいると認識できた時点で、死体が意思を持つ、ましてや襲ってくるという予測は持ち得ないと思う。
ならばどうして怖いかというと、それは、
「死を厭う、隠蔽する、遠ざける」という人間の心理が関係していると聞いたことがある。
これもやはり、元を辿れば生物としての本能なのではないかと思う。
自分の傍に、落命したものが在る状態というのは、生物としてはあまりよろしくないシチュエーションである。
放っておくと腐敗することによって衛生環境が損なわれるし、その臭いに誘われて肉食動物がやってくるかもしれない。
こうしたことにより、動物及び人間は、基本的に死体の傍から離れたくなるようにできているのではないだろうか。
さらに人間の場合は、脳機能が発達し、「自己の死」について考えられる生き物になった。
だから「死」の象徴そのものである「死体」を目にした時、普段は遠ざけている「自己の死」を無意識に連想し、精神的に負担がかかる。
勝手な推測だが、以上のようなことから、不快感や嫌悪感が生じることは避けられないのだろう。
ただ、死体というのは自分の生命を直接的に脅かすようなものではないので、理性で考えれば恐れるべきものではない。
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ということで、少し話が逸れたが、
“ 意思疎通ができない相手 “ とは人間にとってどういうものなのか、という考察の断片を記してみた。
<思考回路は千差万別>
ところで、なぜこんな話を始めたかといえば、最近「わかりあえない」ことについて考えさせられる出来事があったからである。
といっても、別に親しい人間と仲違いをした、とか、そんな重苦しい話ではないのでご安心を。
先日のことである。
私は、行きつけの焼肉屋で昼食をとろうと一人で出かけたのだが、丁度混んでいたので少し待つハメになった。
それはいいのだが、しばらくすると一組のご夫婦が私の後ろに並んだ。
その奥さんがよく喋る人で、半径5メートルくらいに聞こえる声で旦那さんに話しかけるので、私にも丸聞こえである。曰く、
「(メニューを見ながら))あれ?ねえ見て。こないだは1000円で〈ライスとスープおかわり自由〉だったのに、今日は1500円払わないと〈おかわり自由〉にならないみたい。」
…そんなはずはないのである。
この店のランチセットは値段に関わらず全て〈ライスとスープおかわり自由〉なのである。
先ほど私が見た際にも、メニューは普段と変わりなかったはずだ。
あまりご主人が関心を示さないので、奥さん、再度言う。
「ほら。ここにさ、書いてある。(掲示してあるランチメニューを指して)
〈ライスとスープおかわり自由〉、〈1500円〉。」
奥さん、それは違うぞ。
その〈ライスとスープおかわり自由〉は1000円ランチの説明であって、〈1500円〉というのは「お得なセミダブル」の値段だ。
(以下、おおまかなレイアウトを載せる。白いA4用紙に黒い文字で書かれたもの。)
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本日のおすすめ
△△◎◎ランチ
1000円
△△と◎◎の2種類
サラダ・キムチ付き
ライスとスープおかわり自由
お得なセミダブル 1500円
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この明快なレイアウトを以てしても正しく情報を読みとってもらえないのなら、万人にわかる提示をするのは至難の業である…と思うのは、私だけであろうか?
もちろん、感じ方は人それぞれだから、もしかしたら私の感覚の方が少数派なのかもしれない。
私だって、実を言えばかなりそそっかしい面があるので、他人から見たらおかしな言動をとっていることもあると思う。
ただ、少なくとも「私にとって明快」であることが、別の人間には「全く伝わらない」ということを目の当たりにしたわけである。
私はこの時、広告デザインなどを制作する者として、非常に無力感を感じた。
確かに、メニューのデザインというのは、一見簡単に見えて非常に奥深くやっかいな代物である。
店側としては、できればたくさん情報を載せて各料理のアピールをしたいわけだが、あまりごちゃごちゃしてしまうと読みにくくなり、逆効果である。
また、写真の有無も大きく影響するし、文字のサイズも重要である。
特にセットの組み合わせがいくつもある場合などは、見せ方を慎重に検討しなければならない。
私がメニューをデザインする際、心に留め置くようになった教訓がある。
「基本的にメニューはよく読んでもらえないと心得よ。(特に年配者の場合)」
しかも文字が多ければ多いほど、読んでもらえない。
おそらく、文字が多いと字が小さくなって読みにくいのと、情報量が多くてかえって読む気がしなくなるのであろう。
店側としては、できるだけメニューに情報を載せておくことでお客様からの口頭質問を減らしたいと思うわけだが、それがかえって仇になるのである。
色々書いてしまうと、一番読んでほしい部分も読み飛ばされてしまうのだ。
例えば、「選べるランチドリンク一覧」のドリンクにそれぞれ説明を付けたりすると、紙面全体が煩雑な印象になり、早々に自分で探すことを放棄し、店員に「ランチに付くドリンクはどこから選ぶの?」と訊く人が出てくる。
だが一方、よく読んでくれる人もいくらかはいるわけで、そうした人たちに向けてはなるべく情報を伝えたい。
メニューレイアウトは、常にこの二つの板挟みである。
しかし結局は、できるだけ文字数を抑えた方が良い、という結論に落ちつく。
やはり「読んでくれない人」の方に照準を合わせないと、口頭質問が増え、店側の手間が増えるからだ。
不思議なもので、メニュー上の情報量が少ない方が、お客側も「きっとこういう感じのものだろう」と勝手に推測するようで、かえってあまり質問してこない。
もちろん、店によって料理も客層も方針も様々だから、全ての場合に当て嵌まるわけではないけれど。
そうしたわけで、私としては非常にわかり易いと思うあのメニュー。
あれでもわかってもらえないのか…。
そんなことを思っている間も、奥さんの言葉は続く。
「まあ、おかわり自由じゃなくてもいいわ。1000円のセットで別々の2種類を頼もうか。
ほら、こっちの『かざり何とか』も1000円だから。」
それは、『かざり何とか』ではなく『彩り御膳』である。
別に「いろどり」や「ごぜん」が読めないのを蔑むつもりはない。
ないのだが、自分がよくわからないことをそこまで堂々と言える神経が私には理解できない。
「間違っていることや適当なことをあんな大声で言って恥ずかしくないのかしら」という気持ちはどうしても湧いてしまう。私はそういう性格の人間なのだ。
ただ、無知であること自体は罪ではないと思う。
問題は、無知であることを自覚しているかどうかである。
いわゆる“無知の知”というやつ。
また、無知をさらけ出すことが悪いことかと問われれば、そうではないとも思う。
むしろ下手に知ったかぶるよりは、好感が持てる場合もあるかもしれない。
本人が恥ずかしくないのなら、別に私ごときがあれこれ気を揉むことではないのだ。
しかし、恥ずかしいと思うかどうかは別にして、あのような感じで日々過ごしているとすれば、彼女はおそらく世の中に流布している情報や知識の大部分を、曲解している可能性がある。
そう思うと怖い。
おそらく自分の知識が間違っているとは露ほども思っていない彼女は、仕入れた知識を間違った状態で友人知人に伝えるであろう。
この場合は、「あそこの店は、前は1000円でライスとスープおかわり自由だったのに、今は1500円になっちゃったのよ。」というくらいで済むが(それだってこの店にとっては風評被害である)、
個人に関する噂だとか、安全に関する知識など、間違った情報を流されては迷惑する人がいるようなケースでは問題である。
そうした「悪気はないが軽率な人」というのが一定数いるのは事実で、しかも残念なことに、こうした人たちの声の方が断然大きかったりする。
国民のことを陰で愚民呼ばわりする政治家もいると聞くが、確かに世の人全てが賢明なわけではないのが実態である。
こうした人々を(言葉は悪いが)いかにコントロールするかが、国をまとめる立場にいる人間にとって一つの重要なポイントなのかもしれないな、などと思う。
かくいう私も、自分の考えが正しいかどうかなんてわからないし、知らないこと・知らないということ自体に気付いていないことが山のようにある。勘違いしていることもきっと色々ある。
歳をとればとるほど、無知であることに自覚的でありたいと思う今日この頃である。
以上、人によって大きく思考回路が違うことを改めて実感し、これでは同じ人間同士でもわかりあえなくて当然だな、としみじみ思った話。
ちなみに、残念ながら私は件の奥さんに、「違いますよ」と注意する勇気がなかった。
出来得ることなら私の贔屓しているこのお店にマイナスの印象を持ってほしくはなかったのだが、旦那さんが間違いを指摘することを期待したのである。
しかし旦那さんは伴侶のこの調子には慣れきってしまっている様子で、常に「ふーん」と聞き流していた。そういうご夫婦なのであろう。
席に着いた後、奥さんがちゃんと店員に〈ライスとスープおかわり自由〉の条件を質したかどうか非常に気になってしまう小心者の私であった。
<だから解り合いたい>
以上のようなことから、人は基本的にわかりあえないと心得た方が間違いはない、と思う。
しかしだからこそ人は、自分と似た考えの人や、自分の考えを理解してくれる人に出会うと嬉しい。
これは心理学的には、人は「自分の考えは正しい・優れている」という証拠を無意識に求めるが故に、自分と同じ意見や好みを持つ相手に好意を感じる、という理屈らしい。
そうしたこともあるのだろうし、「自分のことをわかってくれる」人は、生きていく上で頼りにできる存在であり、そうした相手に好感をもつのは自然だと思う。
反対に、「あの人の考え方はどうしても受け入れられない」ということもあるだろう。
十人十色、わかりあえなくて当然。
しかし、理解できないからといって無条件に嫌悪・蔑視するのは、賢明とはいえない。
自分がなぜ理解できないのか考察し、可能な限り、わかりあえる手段を模索すべきである。
なぜなら、人は手を取り合った方がよりよい結果を手にできるものだ、と私は信ずるからである。
わかりあえる相手を増やすことは、遍く幸せに通ずると思うからである。
私も、周りの人に理解を示すことはもちろん、とりあえず少しでも多くの人が正しく読み取れる紙面をデザインできるよう、これからも精進したいと思う。
要は、人間同士、わかりあえることも時々はあって、そういう瞬間が人生でたくさん訪れれば幸せであるな、と思ったのであった。
〈了〉
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